西日本豪雨災害からの復興-災害から得た学びと今後の挑戦
災害発生直後に止まった時計
2018年(平成30年)7月に発生した「西日本豪雨災害」を覚えておられるでしょうか。「西日本豪雨災害」とは、2018年(平成30年)6月28日から7月8日にかけて、西日本を中心に広い範囲で発生した集中豪雨による災害です。
「西日本豪雨災害」では、西日本を中心に河川の氾濫や浸水害、土砂災害が発生し、多くの被害につながりました。岡山県では、全県的に水害被害が発生しました。その中で、特に大きな被害が集中したのが高梁川流域でした。
高梁川の川沿いに位置する、川上鉄工所でも浸水の被害を受けた他、隣接する工場の大規模爆発により、工場が吹き飛ぶ壊滅的な被害を受けました。
2024年7月で西日本豪雨災害から6年が経ちました。6年の節目となる今、当時書いた記事を振り返りながら、改めて「西日本豪雨災害」が川上鉄工所にもたらしたものは何だったか考えたいと思います。
以下は、2019年10月から11月にかけて「西日本豪雨を乗り越えてー会社再建の日々を語る-」という全5回の連載という形でDラボに掲載していただいた内容です。
Contents
1. はじめに
岡山県在住、36歳(2018年7月当時)である私は、12年前に自動車部品などを製造する鍛造技術を用いた家業である川上鉄工所に入社しました。製造、品質管理、生産管理、営業、総務を経験し、2016年からは取締役専務として働いています。
日々の仕事に追われながらも、「このまま、なんとなく仕事を続けていくのかなぁ」と考えていたある日、事態は“大雨“により急変しました。それは、私の人生における最大の試練となる西日本豪雨災害の始まりでした。
2. 西日本豪雨災害発生
2018年7月6日、西日本豪雨災害が発生し、敷地全体に2メートルの浸水が生じました。さらに隣接する工場の大規模爆発も重なり、二重の被害を受けました。
すべてが流され吹き飛んだ会社は、深刻な再起不能寸前まで追い込まれました。工場は8ヶ月以上稼働できず、ようやく2019年3月から一部製造ラインを再開することになるのですが、とても再開できるとは思っておらず、なにからどうやって・・・と、言葉にならない。途方に暮れるとはまさにこういう状況を言うのだと振り返ると、そう思います。
3. 被災直後の状況
被災直後は、何から始めればいいのか、何をしなければならないのか、二次災害の恐れはないのか、電気、ガス、水道、トイレはいつから使えるのか、この地で仕事を続けるべきか、社員は無事なのか、といった不安が頭をよぎりました。事態があまりにも大きすぎて、何もかもが呑み込めない状況でした。まるで暗闇の中、手探りで進むような日々が続きました。
4. ボランティアの支援と新たなチームの結成
被災から3日後には、県内外から多くのボランティアが駆けつけてくれました。ピーク時には約50名のボランティアが集まり、社員と合わせると100名近くの人員が炎天下の中、復旧に向けて取り組みました。入れ代わり立ち代わり見知らぬ人々が集まり、連携し、作業にあたる。これは新たなチームが結成された瞬間でもありました。
私たちは、見知らぬ人々の手を借りながら、一歩ずつ前進する力を得ていきました。
5. 復興の目標設定
復興の目標を設定するにあたり、私たちは「早期復旧」を掲げました。しかし、「早期」とはいつのことなのか、どの状態を指すのかが不明確でした。
選択肢は二つありました。
① 稼働再開を優先させ、応急的な復旧に留める。
② 稼働再開まで時間はかかるが、地に足をつけた復旧を目指す。
私たちは②を選択し、顧客や同業他社の協力を得ながら進めました。決断の重みを感じながらも、私たちは再建への道を模索し始めました。
6. システム型組織の活用
被災当初の私たちは、一時的にシステム型組織として機能していました。これは、組織と個人が構成された柔軟な組織形態であり、被災時のような非常事態においても効果を発揮しました。
システム型組織の特徴として、すべてのメンバーが共通の目標に向けて仕事をし、役割を理解し行動することが求められます。私たちは、この柔軟性を最大限に活かし、混乱の中で秩序を見つけ出そうと奮闘しました。
7. 情報共有と会議の変化
被災前は月に一度の定例的な会議を開催するのみでしたが、被災後は毎日会議を行うようになりました。それもそのはず、情報共有は道具であり手段であると学びました。
情報はその人、そのチームが咀嚼できるサイズ感でなければならず、相手が求めていないことを強要しても上手くいかないことを改めて知りました。情報共有の場が、現場の声に耳を傾ける場に変わり、方向性を定める場になりました。
私たちの会議は、ただの情報交換ではなく、新たなビジョンを描く場へと進化していきました。
8. 顧客との関係
当時、復興に向けての応援で来社くださるお客様の中には、役員など普段お会いできないような立場の方も大勢おられました。(当時は名刺交換している余裕もなかった、相手は我々のことをよく知っておられましたが、私たちはどこの誰かよく分からない状況で。どのような立場の方か分かったのは復興後しばらくしてからでした)その時、お会いした役員の方に「なぜ弊社に仕事を発注してくれるのか」をお聞きしたことがあります。なぜ助けてくださったのかがずっと私の中では疑問だったからです。
そうすると、「技術的に難しい注文にも相談に乗ってくれる姿勢や安定供給してきた実績」を評価いただいていることが分かりました。
大量生産の時代は画一的な品質・納期・コストが重要とされていましたが、「お客様が私たちから何を買っているか」を考え続け、実践し続けることが大切だと感じました。「顧客はドリルが欲しいのではない。ドリルで開けた穴を欲している」このピーター・F・ドラッカーの言葉にもある通り、お客様の立場に立った、必要とされるものを必要な時に供給できるものづくりを忘れてはいけないと考えます。
顧客との信頼関係は、私たちの再建の大きな支えとなりました。
当時の忘れられない言葉のひとつをご紹介します。
その言葉とは、ある方に「なぜ我々の復興を手助けしてくださったんですか」と尋ねたときの回答です。
「御社はサプライヤーの一角ではなく、体の一部です。体の一部がケガをしたら手当するのは当然です」
と答えてくださいました。この言葉は今でも忘れられません。
9. まとめ
西日本豪雨災害を乗り越えて、私たちは復興に向けて進んできました。被災前と比べ、考え方や組織のあり方も変わりました。復興の過程で学んだことは、情報共有の重要性や、顧客との信頼関係の構築でした。
様々な経験があったからこそ、この経験を糧に、今後も挑戦を続けていきます。
私たちの物語は「困難を乗り越えた先にある未来への希望」の一つの物語です。
以上が、平成30年西日本豪雨災害を通じて経験した私たちの物語です。
工場を復旧させた後、川上鉄工所では、以下の災害対策を実施しました。
・特別高圧用の受電設備の入手に時間がかかり工場再開のボトルネックになった。
→工場再建時に今後の浸水対策として、特別高圧の受電設備やコンプレッサーは2.5mの架台の上に設置した。
・同様に、データを管理するサーバー室は、新築した事務所棟の2階に設置した。
・別棟の1階にあった食堂も同じ2階に構えた。
・安否確認も含め従業員への連絡に苦労したため、連絡網を整備した。
・工場内の見通しをよくするため、また修繕をしやすくするために、設備や配線の位置を変えた。
・2021年2月にBCPを策定した。
・年に1回の実施を決めた緊急事態想定訓練では、土嚢(どのう)の積み上げの訓練をしている。
・災害時等の製品安定供給のために、同業他社との協力体制構築に着手した。
当時、専務取締役だった「私」(川上朋弘)は、2022年(令和4年)10月に代表取締役に就任しました。当時、会社に入社したばかり(入社の2日後に西日本豪雨災害が発生)だった弟は、2024年6月に常務取締役に就任しました。
ここまでの道のりは平坦ではありませんでしたが、多くの方々の支援を得て、川上鉄工所は今尚、仕事をさせて頂いています。その後はご存じの通り、コロナ禍というパンデミックで世界は混乱し、ロシアとウクライナの戦争に端を発した空前の物価高とピンチは続いています。
災害を受けない会社は難しくても、災害に向けた準備や影響を減らすことはできます。「あの時の災害があったから、今、会社がある」と言えるように、間もなく迎える100周年に向けて邁進します。
※以下も合わせてご参照ください。↓
「工場が吹き飛ぶ壊滅的被害からの再起動」(「BCP Leaders」2024年1月号に掲載いただいた内容です)